“祈り暮らす”ということ

五島列島は江戸時代、キリスト教の弾圧から逃れてきた人々が移り住んだ土地で、
現在でも沢山の教会が残っているそうです。

明治時代になって、キリスト教の信仰が許されても、
仏教を隠れ蓑とした『カクレキリシタン』として、独自の信仰を続けてきた人もいるとのこと。

『五島列島ファンクラブ』が地域再生を推進している現在の半泊にも、
カトリックとカクレキリシタンという二つの宗教が混在する、
という独特な信仰の世界が存在している状況で、
“祈り暮らす”という雰囲気が充満しているようです。

無信仰者としたら、半泊を訪れたなら、
説教されたり、信仰を強要されるかもしれないなんて、面倒くさい印象を持ちますが、
実際は、そんなことは一切無いようですから、偏見は持たないでください。

『信仰』なんて構えてしまうから大事になってしまいますが、
ふと気づいてみれば、我々は
「明日、晴れますように!」とか、
「受験に受かりますように!」とか、
「日本チームが勝ちますように!」なんて、
しょっちゅう何かに対して願い事をしているものです。

“困った時の神頼み”は、しっかり体験済みなのですが、
順調さを感謝する習慣がないところが、『信仰』との違いかもしれません。

私たちが思わず手を合わせてしまう状況はママありますが、
その時、一体何に対して祈っているのでしょう?
信仰を持っていないのに、その時だけ神様の存在を信じているのでしょうか?

日本の文化は“恥の文化”といいます。
何に対して恥を感じるのか?
神といっても、仏といっても、自分といっても正解である気がしますし、
その根っこに、この世界を作り上げた“自然”とでもいうべき概念が共通しているようにも思います。

五島列島に逃れ着いたカクレキリシタンの人々は、
自然に寄り添い、自然と闘い、生き延びてきたのです。
キリスト教への信心は、そんな自然との共生の支えになっていたことは間違いないように思います。

人が入ることによって守られる自然と、
自然から様々な恩恵を受けた暮らしの調和は、
人間にとって豊かなものであることに異論ありません。

そんな生活を“祈り暮らす”と表現しているように、
私には感じられます。

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